とうさん、がんばるぞ!  日本大好き「とうさん」の子育て奮闘記&もろもろ。

【日本人よ、前を向け】欧米列強の大罪|共産革命の闇|尼港事件

前回の復習

ロシア革命が起こったロシアでは資産家階級が粛清され、次に隣人が隣人を監視する恐怖の時代が訪れていた。ロシア革命の混乱で無政府状態となった広大なロシア各地では、共産パルチザン(非正規革命軍)が略奪・凌辱の限りを尽くす。その矛先は日本人居留民に及ぼうとしていた。尼港事件である。
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尼港事件

当時尼港市には
日本居留民   約   700名
白系ロシア人  約1万5000名
中国人     約  1000名
朝鮮人     約   500名
が住んで居た。日本人700名というのは日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名とその家族の婦女子440名であった。

大正9年(1920年)1月29日、突然現れたロシアのトリピ―チンを首領とする約4千人のパルチザン、彼らはいきなり尼港市街を包囲した。

真ん中の白シャツ、これが極悪トリピーチン・・・

守備していたのは、石川少佐率いる二個中隊二百六十名と無線電信隊の四十名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)合計約三百五十名足らず。

つまり、守備隊の10倍以上もの武装した暴徒が町を取り囲んだのだ。町を包囲した共産パルチザンは「自分たちには敵意はない、食料と補給に協力をしてほしいだけだ」と称し市内に入り込んできた。

だまし討ち

ところが市内に入るやいなやロシア白衛軍の将兵を捕え、全員を虐殺した。さらに、一般市民の中から「有産智識階級」と思しき市民を虐殺し、家財・財宝を強奪した。

そして、ユダヤ人を選び出し婦女子に至るまでその全員を強姦し虐殺した。

共産パルチザンたちは、銃剣で突き刺して殺害したロシア人やユダヤ人たちを国龍江の結氷を破って作った穴から凍る流れに次々と放りこんだ。こうしてたった一晩で尼港ではロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺されたのだった。

共産パルチザンたちは日本軍にも武装解除を要求してきた。しかし同胞のロシア人に行った凶行を目の当たりにした日本軍は義勇軍を募り打って出ることを決める。援軍は早くとも40日後でなければ到着しないことが明らかだったからだ。が、衆寡敵せず義勇軍110名は全滅する。残された590名は義勇軍の奮戦中に領事館に逃げた。領事館にたどり着いたのは250名。残りの340名は共産パルチザンに捕まり、虐殺される。その惨状は目を覆うばかりだ・・・

子供を見つけると二人がかりで手足をもって、石壁にたたきつけて殺し、女とみれば老若問わず強姦し、面白半分に両足を二頭の馬に結び付け股を引き裂いて殺す・・・人間の所業ではない・・・

領事館にたどり着いた人々は、立てこもり、激しい銃撃戦を繰り広げる。

敵は手ごわいと感じた共産パルチザンは一計を案ずる。武器を置いて投降せよ、との日本軍の指令書を偽造したのだ。これを読み上げ、守備隊に投降を迫る。日本軍は軍規正しい軍隊であるため、その指令書がもし本物であれば国際問題に発展するとの思慮から武器を置いて投降する・・・

さらなる日本人惨殺

こうして捕らえられた122名の日本人は、共産パルチザンの防衛のための陣地構築を命ぜられる。凍てつく寒さの中、手足を凍らせながら・・・。

しかし、日本の援軍が到着するとのうわさを聞き付けた共産パルチザンは5月24日、日本人をアムール川岸へ連行し、虐殺する。そして蜘蛛の子を散らしたように逃げていくのである・・・1月からこの時までに共産パルチザンが惨殺した居留民は6000人以上であったと言われている。

後日、救援に来た旭川第7師団の多門支隊が残した報告書は以下の通りであった。

生きたまま両目をえぐられ5本の指をバラバラに切り落とし死ぬまで何度も刺されていた。金歯がある者は生きたままあごから顔面を切り裂かれ金歯を抜き取られた。女は裸にされ凌辱されたうえで股を裂かれ乳房や陰部を快り取られ殺された。獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚、などこびりついていた。
そして、獄舎の壁には次のような一文が刻まれていた。

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
毎日新聞社「昭和史第4巻 昭和前史・関東大震災」より

西欧白人と日本人

尼港事件での凄惨な殺害方法。これは『欧米列強の大罪|異民族大虐殺Ⅱ』でも取り上げた惨殺方法と通底するものがある。西欧白人は1500年代から400年の時を経ても、その精神性は何一つ成長していなかったのだ!
こうした西欧白人達の残虐性を嫌というほど日本人は味わった。また、支那兵も西欧白人に劣らぬ残虐性を有していた。詳細は支那兵が起こした惨殺事件“通州事件”を確認されたし。目を覆いたくなる惨事である。
このような経緯があり、日本人はその戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という一文を入れざるを得なかった・・・生きて捕まれば、死ぬより辛い生き地獄が待っていたのだから・・・

大東亜戦争末期の日本人大量自決は、軍が強制したものでなく、当時の日本人の常識として受け入れられていたのだ。白人の捕虜になったら女は強姦され、むごたらしく殺される。男も耐えられぬほどの拷問を受け最後は惨殺される。特に有色人種を人間と思っていない彼らに捕まって無事でいられるわけがない。それなら自ら潔い死を受け入れる・・・。

西欧白人の500年に渡る所業、それをすべて知り、嫌悪していた日本人。残虐な西欧白人と日本人、両者が相まみえたとき、行きつくところまでいかねば収まらない戦いとなることは運命だったのかもしれない・・・

次回、ついに大東亜戦争へ↓↓↓

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