日本の国體
1.万世一系の天皇が治めるこの国は、未来永劫栄えることでしょう
2.天皇を中心(親)とし、国民を大切な宝(子)とし、国民の利益にかなう政治を行います
この二つに加え、前回述べたように(未読の方はこちら)とうさんは教育勅語から読み取れる
3.日本人として徳の道を窮めること
も、日本の国體としてとらえて良いのだろうと思います。だからこそこれほどまでに民度の高い国を維持できていると考えます。
日本の国體は実に2679年の永きにわたって維持されています。(記紀の伝承を真実とすれば紀元前660年が神武天皇の即位の年にあたるため。存在が確認されているとされる天皇(507年に即位した継体天皇)から数えても実に1500年以上です!)
我が国の皇室は、現存する世界最古の王朝であり、この事実は日本人として誇りに思ってよいことです。
では、この国體をもとに、どのような政治を行ってきたのでしょうか。政体(政治のかたち)はどうだったのでしょうか。
民のかまど
大昔は天皇が直接政治の中心におられたこともあるでしょう。例えば古事記に書かれている「民のかまど」の話をみてみましょう。聖帝(ひじりのみかど)と呼ばれる仁徳天皇のお話です。
「民のかまど」
仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。
それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もあそばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞け妻よ。政事(まつりごと)は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
そのころ、諸国より「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」との申し出が頻頻とあるようになりました。
それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになりませんでした。六年の歳月がすぎ、やっと税を課し、宮殿の修理をお許しになりました。その時の民の有様を「日本書紀」は次のように生き生きと伝えています。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争い作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」
このように仁徳天皇は民が困っているだろうことを心配され、自らの暮らしが貧しくなろうとも、民が富めるような政策を立てられ実行されました。日本の国體の精神通りの行動ですね。仁徳天皇は国民の利益を第一とし、政策を立案・実行されました。そして国民もそのような天皇の御心をありがたく思い、自分たちのために苦労をなされた天皇のため、強制されてもいないのに皆が争い競うように宮殿の修理を短期間で成してしまいます。これこそが民を中心(主)とする政治ではないでしょうか。
なぜ古事記に
ところで、この仁徳天皇は実在していないとか、二人の天皇を合わせたようだとか、そもそも古事記など後年書かれたもので天皇の存在を肯定するためだけの意味しか持ち合わせていない、等の批判も多くあります。例えそうであったとしてもその中身としてどういう国のあり方を国體とすべきとしてきたか、民のかまどを通じてどういう政治を後年の政治に求めたのか。それは明らかなのではないでしょうか。「民を宝とする政治」「民を中心とした政治」。そしてそれを天皇自らが自身に課したとも読めます。これこそが日本の国體の真髄なのではないでしょうか。
國體の変化
とうさんが敬愛してやまない渡部昇一先生は「日本の國體は5度変化したが断絶していない」とおっしゃられています。どういうことでしょう。
国體には「民を宝とする、民に利益をもたらす政治」を行うとされています。では、その政治は誰が行うのでしょう。民のかまどで見たように、天皇が直接政治をつかさどる時代もあったと考えられます。しかしそれは少しづつ変化していきます。
最初の変化は用明天皇の御世に起きます。仏教の伝来です。仏教はもう少し前(欽明天皇の御世)に伝わっていましたが天皇で初めて仏教に帰依したのが用明天皇です。もともと日本は神道の国ですから、そのトップが他の宗教に帰依するなど一大事です。ただそこは日本人らしい方法で乗り切ります。仏教は今でいう学問や哲学のようなものでそれは尊重するが神道も今まで通り尊重する、という形です。こうして天皇がなすべき儀式は今上陛下の御世まで延々と引き継がれています。しかしこのような新しいものが入ってくるとそれをうまく利用し勢力を拡大する者が必ず現れます。それが蘇我氏です。そして日本の伝統を大切にする物部氏などを倒し、一大勢力を築きます。
しかし蘇我一門はやりすぎてしまう。入鹿の代に入ると自ら天皇家を継ごうとの野望を露わにします。その野望を阻止すべく国粋派である中臣氏の血を引く若き天才中臣鎌足が立ち上がります。そして蘇我入鹿をみごと倒し、“大化の改新”を行いました。
大化の改新の中心は公地公民制でした。私有財産をすべて廃止しすべての土地や人を公有化したのです。これにより各地の豪族たちの力は弱まりました。しかし公地公民制は不評だったので新たに開拓した土地の私有を認める「墾田永年私財法」ができます。こうした新しい法律ができると一番利益を得るのは昔から法律を作った人だと言われるように、朝廷の内部にいる、貴族や官僚たちが力をつけていきます。こうして力を得たのが中臣鎌足を始祖とする藤原氏でした。
こうして日本の政治は中央集権化が進んでいきました。続きは次回!
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