とうさん、がんばるぞ!  日本大好き「とうさん」の子育て奮闘記&もろもろ。

【日本を知ろう】国體7|日本人による人種平等提案

  • 2019年9月29日
  • 2019年9月29日
  • 國體
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有色人種の希望の星

前回(未読の方は【こちら】)、人種差別をしないという精神は神武天皇の「建国の詔」にある「八紘一宇」の精神によるものと明確に公文書に記載されており、日本はこれを「国是」としてきた、と述べました。そして日本人は明治維新で近代化を進め、日露戦争に勝利しました。有色人種でも西欧白人文明に追いつき追い越せることを証明し、有色人種の希望の星となりました。

(日露戦争による価値観の大転換についてはこちら↓↓↓)
【日本を知ろう】祖父・曽祖父による世界価値観の大転換|日露戦争

今回は、西欧白人列強こそが優れた人種であるとの価値観を一変させた日本が取ったその後の行動をみてみましょう。国是でもある人種差別をしないという精神、その精神は第一次世界大戦直後にも明確に打ち出されています。今回はそれをみてみることにしましょう。

第一次世界大戦前

世界中において人種差別が白人によって推し進められる中、アメリカでは1882年、特定の地域における良好な治安を危険に晒したことを前提として、特定民族の労働者集団の入国を初めて禁止する法律である「中国人排斥法」を可決します。

アジアでは、日本からハワイへの移民も明治初期から始まり、また米本土への移民も増えていっていました。そして当然、日本人への排斥運動も巻き起こります。しかし当時日露戦争にも勝利した日本は大国の一員であり、日本政府が日本人移民を守る意志をみせたため、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族となります。

国家としてのアメリカは法律上日本人移民を排斥しませんでしたが、州レベルでは違っていました。そしてついに1906年、サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題で排斥の動きが加速します。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのです。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されますが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至りました。

パリ講和会議

このように日本人は、アジア・アフリカの有色人種が西欧列強によって搾取され、排斥運動などで差別されている現状をよく理解していました。また、日本人自身もそういう状況に陥る可能性を十分認識していました。

そういう中、第一次世界大戦が勃発します。これは西欧列強による植民地を巻き込んだ大戦争でした。そして戦争が終結し、パリ講和会議にて秩序の再構築を行うため国際連盟の発足が議論されます。パリ講和会議には五大国の一員として日本も参加しました。

そして日本代表は国際連盟委員会において、連盟規約二十一条の「宗教に関する規定」に

「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」

という条文を最後に追加するよう提案しました。代表である牧野は人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためにはこの提案が必要であると訴えたのでした。

けれどもこの案は植民地全盛、人種差別全盛の世にはまだ早かったことと、宗教に関する規定自体への反対も多くなり、「宗教に関する規定」自体が取り下げられたことにより消えてしまいます。

しかし日本は日本人らしく“和”の精神によってか、日本の主張を強引に通すようなことはしませんでした。日本人の主張に耳を貸してくれる国がどれだけあるかを事前に調査し、脈ありと思えば説得し、ようやく最終会合において多数決を取るまでの合意形成を得ます。

そして国際連盟委員会最終会合において、牧野は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案しました。これには参加17ヵ国中、11ヵ国の賛成、5ヵ国が反対でした。多数決の原則から言えば当然可決されたのでしょう。

が・・・。

議長であるアメリカ大統領ウィルソンの
「このような重大案件は全会一致でなければならない、少なくとも反対国が0でなければならない」
という理由にならない判断で採用に至りませんでした!

西欧列強は
「俺たちは今後も人種差別を続けるぜ~~~!」
と宣言したようなものです・・・
なんと民度の低いことか。

このように日本は世界で初めて国際規約の中に「人種平等」を謳う文言を入れることを提案した誇るべき国なのです。なぜこのような提案をしたのか。それは日本自身が差別の当事者となることを避ける目的も当然あったでしょう。

しかしそれだけでなく、日露戦争に勝った(有色人種で初めて西欧白人列強に対抗しえた)国としての義務感もありました。

そして日本古来から伝わる崇高な理念“八紘一宇”の精神通り、世界の国々が家族の様に仲睦まじく暮らしていけることを理想としていたからではないでしょうか。

日本の心配の通り、1924年にはアメリカで“排日移民法”とも言える法案が可決されます(1924年移民法)。のちに昭和天皇は大東亜戦争の遠因にこの排日移民法を挙げました。最大の引き金は“石油禁輸”と述べられたのです(「遠因はアメリカの移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」)。

この日本の崇高な理念は大東亜戦争を経て、日本は戦争自体には敗北しましたが、掲げた理念(人種平等とアジア・アフリカ諸国の独立)は実を結ぶこととなるのです!

次回は戦後のアジア各国の日本に対する思いをみてみましょう。

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