前回の復習
日本は「権威」と「権力」を分けることで、国民が「しあわせ」になることを理解していたと述べました。今回は道鏡事件以来の国難、「元寇」についてみてみましょう。
(前回未読の方はこちら)
元寇
次に国難が訪れたのは皆さんご存じ、元寇です。元は当時の中央アジアから東ヨーロッパまでを治める強大な国でした。
1268年正月、蒙古帝国第5代皇帝フビライからの手紙が、朝鮮半島の高麗からの使者によって日本にもたらされます。内容を大訳すると、「通商を結べ(属国になれ)、さもなくば兵を用いて攻め込むぞ」でした。
高麗はこの30年ほど前の1259年、30年近くの戦いに敗北して、蒙古の属国となっていました。半島は蒙古軍の蹂躙にまかせられ、抵抗する高麗民衆は「骸骨野に満つ」という状況でした。高麗の次は日本であり、そのことを日本は十分に理解していました。
北条時宗
フビライの使いがあった2ヶ月後に18歳の北条家当主、時宗が鎌倉幕府の最高責任者である執権の地位につきます。そして時宗はフビライの国書を見ると、「これは無礼な」と眉を逆立てます。形だけ属国になってもよいのでは、との声もあるなか時宗は
「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません」
と突っぱねます。
文永の役
蒙古は国号を元と改め、度重なる使いを日本に送りますが、時宗が黙殺を続けると、ついに文永11(1274)年10月、蒙古2 万、高麗8千の軍勢が900艘の大船団で、対馬、壱岐を襲います。
対馬では守護代がわずか80騎の手勢で、上陸した千人近い元軍に果敢に挑みます。が、多勢に無勢、1,2時間で全滅してしまいます。元の兵は島民の多くを殺し、家を焼きました。
壱岐では100騎余りが桶詰城に立て籠もって、まる一日ほど善戦しますが、ついに全滅しました。住民の男は見つけ次第に殺され、女は捕らわれて掌に穴をあけられ、それに綱を通して、船べりに吊り下げられたといいます。
元軍は10月20日、博多湾岸に上陸。1万に満たないと言われる九州一円の武士たちが迎え撃ちます。武士たちはこの戦いで目立った働きをすれば、たとえ戦死しても恩賞として、妻子・子孫に所領が貰える、そういう思いで懸命に闘います。元軍は今回の戦いに分が無いとみたのか、11月26日に引き上げます。
翌・建治元(1275)年4月、フビライの使者がやってきます。国書を持参し、時宗に会うことを要求します。「日本国としては、文永の役では意地を見せた。このたびはフビライ王と和をむすぶべき」との声が幕府の中にもあったが、時宗は、
「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ」
とまたもや突っぱねます。さらに元軍再襲来に備えて、博多の海沿いに石築地を築くように命じます。
弘安の役
1281(弘安4)年5月元軍は、蒙古・高麗・漢人・南宋の連合軍、兵数14万で壱岐対馬を襲います。そして6月6日ついに博多湾に姿を現します。しかし、元軍は博多湾沿岸に延々20キロも築かれた石築地を警戒して、すぐには上陸してきませんでした。
石築地は断面で高さ2m余、基底部の幅3m弱、海外側をせり立たせて敵の上陸を阻む一方、陸側はゆるやかなスロープとして騎馬のまま駆け上れるようになっていました。そして海上にとどまっている元軍に鎌倉武士たちは奇襲をかけます。
相次ぐ奇襲に手こずり、また博多の守りの堅さを知った元軍は、石築地のない志賀島への上陸を図ります。ここから潮が引けば陸となる長い砂州、「海の中道」から香椎、箱崎をへて博多に迫ろうとしました。
そうはさせじと、白砂の美しい海の中道で両軍の主力が激突します。数日後、元軍は志賀島からの上陸を諦め、博多湾外に去っていきました。
元軍は作戦の練り直しのためか、20日以上もそこから動きませんでした。そして7月29日出航と決めていた所に、日本勢に斬り込みをかけられ、大混乱に陥って、29日出航が不可能となります。
死体の始末や、船舶の修理に追われている元軍にあくる30日夜から大暴風雨が襲います。翌朝、大半の船は海に呑まれ、また磯に打ち上げられました。
こうして元の第二次遠征も失敗に終わります。最終的には台風が元軍の息の根を止めたわけですが、それも日本軍の「一所懸命」の守りにより、2ヶ月近くも元軍を海上にとどめることができたからでした。神風を呼んだのは、日本軍の奮戦であったのです。
このように、元寇でも我が先祖は命を懸けて国を守り切りました。さて、次回は白人キリスト教徒による世界侵略と日本の鎖国政策をみてみましょう。
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【日本を知ろう】国體16 天壌無窮を支えたものⅣ 鎖国による平和