戦前の評価
戦前は乃木大将を知らぬものは皆無。なぜなら尋常小学校の教科書で必ず習ったから。そして何より、人柄、生き様において乃木大将ほど日本人の琴線に響く方はおられないかもしれない。
なぜ、戦後は・・・
戦後、教育界が戦争を毛嫌いし、戦争に関わったものを悪しざまにいう風潮が蔓延した。特に軍人に対しては正当な評価に蓋をし、無きものの如く扱ってきた。
そして、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で明らかに乃木大将をディスっていたのも影響している。
司馬史観では明治維新から日露戦争までの日本と、昭和に入ってからの日本を全く別のものとしている。いや、そうではないだろう。日本人は昔からこの両面を持っているのだ。
国に危機が迫れば奮い立ち、平和を享受すれば腑抜けたようになる。
大東亜戦争でも現場の兵士はどこの国よりも規律正しく強く朗らかであった。しかし官僚機構化した政府が問題だっただけである。
そして日本開闢以来初めて負けただけのこと。他国は勝ったり負けたりを繰り返している。日本は負けることへの免疫が極端になかった。その結果、戦後はGHQの誘導にまんまと嵌り、自虐史観をことさら信じ込んだ・・・
おっと、話がかなり脱線してしまった・・・
乃木大将
乃木大将は山口出身。若いころ、松陰先生の弟弟子として玉木文之進先生に薫陶せられ、松陰先生を深く敬い、己の人格形成の基とされた。皇室への敬愛・尊崇の念が非常に強いお方でもあらされた。
西南戦争では第十四連隊を指揮し戦い、最終的に勝利に導く。が、途中連隊旗を奪われてしまう。しかしこれは不幸な出来事でしかない。薩軍400に対し乃木軍200、倍の敵に一時退却する際、連隊旗を持っていた少尉が戦死し倒れ、奪われてしまったのだ。
尊王の思いが強い乃木連隊長、陛下から賜った連隊旗を奪われる失態を演ずることになった責任を重く受け止め、自殺を図る。しかし児玉源太郎少佐に諫められ思いとどまる。
このあたり、実に人間臭くて日本人が好きな所以ではないか。失敗はすれども成長し、成果を挙げる。忠心に篤く、責任感が強い。
日露戦争では乃木大将のリーダーシップが遺憾なく発揮される。
乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた兵士は「乃木大将のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木大将の風格によるものであり、乃木大将の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木大将の人格は、旅順を攻略する原動力となったのだ。
旅順攻囲戦はロシア軍4万4千(さらに軍属7千、海軍兵士1万2千)vs日本軍5万1千の戦いだ。日本軍がわずかに多いが、ロシア軍は旅順を要塞化しており、ステッセルも「3年は持つ」と豪語していた。
第一回総攻撃が8/19日であり、旅順要塞陥落が翌年1月1日である。3年は持つと言われた要塞を5ヶ月に満たない期間で攻め落としたのだ。乃木大将の戦術たるや恐るべしであろう。
ロシア軍の死者は1万6千人、日本軍の死者は1万5千人だ。しかし、これは最終的な死者数であり、開戦当初は圧倒的に日本軍の死者が多かった。完璧な要塞に肉弾、突っ込んでいくのだから・・・。それでも攻撃をやめない乃木軍にロシア軍は恐れをなす。
倒しても倒しても我が命を目掛け襲ってくるのだ、恐怖以外の何物でもない。この恐怖心を植え付けたことが最終的に日本軍の勝利を呼び込んだ。これはのちの戦いにも生きてくる。
奉天での戦いでも、圧倒的に戦力はロシア軍が勝っていたが、乃木軍が合流したことで兵士の恐怖心が呼び起こされ、ロシア軍は退却を余儀なくされた。
そして日本は日露戦争に勝利を収め、日本の独立を維持し、有色人種でも白人に抗し得ることを世界の有色人種にみせつけた。日本は世界の有色人種の希望の星となったのだ!
東京出張
ということを知っていれば、日本人として一度は乃木神社に参拝したいと思うだろう。で、たまたま東京出張で赤坂に宿がとれたので、乃木神社にお参りしてきた。
先にも述べた通り、乃木大将は戦前日本人に非常に尊敬されていた。明治天皇崩御にあたり殉死されたこともあり、日本人でその名を知らぬ者は皆無であった。
幽霊坂
現在「乃木坂」と呼ばれている坂は、乃木大将が殉死されるまでは幽霊坂として知られていた。明治以降、赤坂には軍関係の施設が点在していたため、乃木大将も居を構えておられた。そして幽霊坂を登り切ったところに乃木大将の住まいがあったのだ。
国民皆が敬愛する「乃木大将」が、明治天皇崩御にあたり赤坂の自邸居室において殉死なされた。国民の悲しみは一層深くなったが、敬愛する乃木大将を偲び、「幽霊坂」を「乃木坂」と改名した。
乃木神社
乃木坂を登ると、旧乃木邸がある。そのとなりに大正12年、乃木神社は建立された。ここには乃木希典命(まれすけのみこと)と妻であらせられた乃木静子命(しずこのみこと)が祀られている。
乃木神社は赤坂だけでなく、他にもある。
・那須の乃木神社:日清戦争後に閑居した別邸の敷地内
・京都伏見の乃木神社:明治天皇陵の麓
・長府の乃木神社:幼少期を過ごした山口の長府
いずれも乃木大将ゆかりの場所。如何に国民に敬愛されておられたかがわかる。
正松神社
乃木神社の敷地内には他の神社もある。正松神社と赤坂王子稲荷神社だ。お稲荷さんは皆さんご存じの通り、穀物と農業の神様。
先にも触れたが、乃木大将は松陰先生と玉木文之進先生を非常に敬愛なさっておられた。そのため、戦災復興の折、萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け、ここに鎮祭された。御祭神は玉木文之進正韞命、吉田矩方松陰命の二柱。
旧乃木邸
旧乃木邸もあったのだが、開放時間が9:00~16:00であったため入ることができなかった・・・残念。