権力絶頂!藤原氏
前回は十七条の憲法が示す「和」と当時の政体について述べました。
(未読の方はこちら)
前回見た通り、日本では十七条の憲法が制定され、憲法に乗っ取った形での天皇中心の政治(物事はすべて議論して決める)を行うため、秩序ある中央集権化に移行していこうとの動きを取ります。
しかし憲法は制定されても実際は各地の豪族が力を持っており、政治の力は強くなりませんでした。そんな中、前々回に述べたような公地公民制が敷かれ、豪族の力が弱まり、中央集権化が進みます。そして政治がうまく機能し、平和な世の中が訪れたのでした。
その中で権力を握ったのは「藤原氏」でした。藤原道長は
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思えば
と「俺様の権力絶頂!!」というような傲慢とも思える歌を詠みます。しかし、皇室を乗っ取ろうという考えを持つことはありませんでした。なぜでしょう。これはまた後日記載します!
武家政治の到来
しかし、400年も平和な時代が続くと政治機構が腐敗化してきます。そして皇室の乱れに端を発し、武家が台頭してくることとなります。腐敗した朝廷の政治機構では国の政治は成り立たないと判断した武家がついに政権を奪うのです。鎌倉幕府の成立ですね。
ここで「政体の変化」が起こりました。
天皇親政→朝廷(官僚政治)→武家政治、このように変化を遂げます。
この“幕府”の政体はどのようなものだったのでしょうか。それは征夷大将軍を頂点とした封建制度です。ここで今までの政体からがらっと変わることになります。日本の政体の第二の変化です。
しかし、幕府の頂点である征夷大将軍は天皇から任ぜられるわけです。つまり、任命するという事は任命する側が当然上位ですから、征夷大将軍の上に天皇がおられる、との形ですね。そしてこの政体は江戸幕府が倒れるまで続きます。武家は力を持っているのにも関わらず、またもや皇室を破壊しようとはしませんでした。なぜでしょう。これも後日記載します。
明治の政体
江戸から明治に移ると政体はどうなったのでしょうか。明治元年4月6日に明治天皇による五箇条の御誓文が発せられ、この諸原則を具現化するために憲法制定の動きが活発になります。そして伊藤博文などを中心にヨーロッパへの海外調査が明治15年に行われます。伊藤らはベルリン大学やウィーン大学の学者から『憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからにはまず、その国の歴史を勉強せよ』とのアドバイスを受けます。ようやく明治22年2月11日に大日本帝国憲法が公布されます。これはドイツを手本とした近代立憲主義に基づいた憲法でした。そしてそれは議会制立憲君主制とも呼べるものです。議会制というのは議会を憲法に規定したからですが、要するに皆で議論して物事を決めなさいよ、という政治ですね。幕府が敷いていた封建制から以前のような立憲君主制に戻したことになります。ただ昔と違う点は議会の議員を選挙で選ぶようになったことです(衆議院は選挙で選ばれましたが貴族院は選挙を経ていませんでした)。
このように、明治になり「議会政治」に政体が変化します。
そして戦後はすべての議員が選挙を経て選ばれることとなります。天皇も象徴と定められました(もともと「権威」としての存在であり、「権力」は握っていないが・・・)。
政体の変化と國體
このように、政治の形体は時がたつにつれ少しずつ変化していきました。しかし天皇が常にその政体の上位にいました。日本は常に“皇室をいただく”体制を維持してきたのです。これこそが我が国の“国體”です。なぜ、現在に渡ってこの“国體”を維持しているのでしょう。それはこの国體である限り、どのような政体に変わったとしても、国民を政治権力者の好きにすることができない、大変すばらしい制度だからです。なぜなら我が国體は“ 国民を大切な宝(おおみたから)とし、国民の利益にかなう政治を行うこと”を是としているからです。
また、そこには神話の時代から続く稀有な国であるということが関係しています。
詳細は次回↓↓↓をお楽しみに!
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