最終回!
しあわせの共通項もついに最終回。
最終回は ⑦ 受動的しあわせを感じられる についてみていこう!
受動的しあわせ??
受動的しあわせってなんだろう・・・
それは努力して求め、結果として得られる「しあわせ」の類ではない。
文字通り、受け身のしあわせ。
例えば・・・
雨上がりの空の青さ。
例えば・・・
子供達が笑顔いっぱいに遊んでいる日常。
例えば・・・
今日の味噌汁の美味しさ。
日常での・・・
それはありふれた日常の一コマ。その中にある小さな出来事。
そこに心を配れるかどうか・・・
小恍惚
私が尊敬してやまない渡部昇一先生は、この状態を「小恍惚(小さな恍惚)」とおっしゃっている。
【渡辺昇一:人生の手引書、扶桑社新書、p38】
「小さな恍惚を授けられるという心境に浸ってみることで、自分があることのありがたみがわかるはずである」と説く。
こころの状態
受動的なしあわせを感じられるときのこころ。そこにはある程度の「余裕」が必要なのではないか。
自分自身の存在や、身の回りの出来事を「ありがたい」と思えるこころ。
先人や、両親、友人、子供に「感謝」のこころを持って接しているか。
足るを知る
老子曰く「足るを知る者は富み」
老子は「現状が満ち足りていることを知る人は心が豊かな人だ」と説く。
無明をしりぞける
高名な数学者である岡潔(おか きよし)先生は、
“無明をしりぞけながら進むのが「生きる」ということ” と説く。
(無明とは「生きようとする盲目的意思」のこと。わかりやすく言うと「際限ない欲望むき出しの自我」であろうか)
受動的しあわせを感じる
したがって、とうさんが思うに受動的しあわせを感じるのは・・・
際限なき欲を捨て、現在の自分に満足し、先人への感謝を忘れず、現在の状況を「ありがたい」と思える、そんなこころの状態になったとき、ではなかろうか。
しあわせいっぱい!
先のこころになった時、日常はしあわせに満たされる。
何を見ても何を聞いても「しあわせ」に感じられるのだから。
「しあわせ」とはこころの持ちよう?
こうしてみてくると「しあわせ」かどうかは最終的にはこころの持ちようにも感じられる。
それならこんなスペースを割くまでもない。一言で済むのである。
否、どう生きるかによる!
「しあわせ」を感じられるかは、どう生きているか、に大きく関わってくる。
しあわせの基本事項、安心安全な社会を創ることに参画し、衣食住が満たされるだけの仕事を持ち、存在を認めてくれる仲間を得る。
社会の中で役割を持ち、自己成長を続け、他者貢献に役立てる。
そして「欲」を抑え、足るを知る。
「しあわせ」になるためには、しあわせの共通項を認識し、愚直にやりつづけることだ。
ふたりに遺す
人生に迷った時、とうさんの想いを参考にして欲しい。
要諦は「無明をしりぞけながら進む」こと!
(岡先生については別の機会に詳述する)
ふたりが「しあわせ」に生きてくれることを強く願う。