空母いぶき
共演者の佐藤浩市氏の発言が話題になっている。
空母いぶきはビックコミックで連載中の劇画作品だ。ビックコミックのインタビュー【5月10日発売ビッグコミック10号(小学館)】で佐藤浩市氏は、総理役について次のように語っている。
—総理は漢方ドリンクの入った水筒を持ち歩いていますね。
「彼はストレスに弱くて、すぐにお腹を下してしまうっていう設定にしてもらったんです。だからトイレのシーンでは個室から出てきます。」
これはどう否定しようと、安倍総理を揶揄していると受け取られても仕方ないであろう。潰瘍性大腸炎を患っている安倍総理を、だ。
以前も書いたがとうさんも潰瘍性大腸炎を持病に持つ。確かにストレスには弱く、一日数回トイレの個室に入る・・・。
ただ、総理ともなるとストレスは尋常ではなかろう。「そのストレスの大きさを示したかった」と言われれば、好意的に受け取れないこともないか?
発言の一部を切り取って批判することは野党やメディアがよく使う大衆誘導法であり、厳に慎まねばならぬ。
ただ、さらに問題なのはその先だ。
インタビューは続く・・・
—この映画からどのようなものを受け取ってもらいたいですか。
僕はいつも言うんだけど、日本は常に「戦後」でなければいけないんです。戦争を起こしたという間違いは取り返しがつかない、だけど戦後であることは絶対に守っていかなきゃいけない。
それに近いニュアンスのことを劇中でも言わせてもらっていますが、そういうことだと僕は思うんです。専守防衛とは一体どういうものなのか、日本という島国が、これから先も明確な意思を提示しながらどうやって生きていかなきゃいけないのかを、ひとりひとりに考えていただきたいなと思います。(太字:運営者による)
じいちゃん達は好戦的でも侵略戦争をしたかったわけでもない。
ただただ、愛する家族の「しあわせ」を願って戦ってくれたのだ!
決して彼が言うような「戦争を起こしたという間違い」など起こしていない。
間違いがあったとしたら「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の通りに戦略を進められなかった点であろう。
日本は戦争を引き分けに持っていく戦略を持っていたのだ!
この話はまたの機会に述べよう。
ギリギリの状況
日米の開戦にしても、日本はギリギリの状況まで追い込まれ、立ち上がったのだ。
終始、日米開戦に異を唱えていた永野修身軍令部総長の言を引いておきたい。
1941/9/6「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」(Wikipediaより引用。太字:運営者による)
先人の想いを受け、今を生きる我々がなさねばならぬことはなんだろう・・・
インタビューの冒頭へ戻ろう
冒頭、次のようなやり取りでインタビューは始まる・・・
—総理大臣役は初めてですね。
最初は絶対やりたくないと思いました(笑)。
いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残ってるんですね。
役者さんの世界はよくわからない。体制側の立場を演ずることに抵抗感があるのか・・・
体制側は「必ず悪である」とする価値観でもあるのであろうか・・・
僕らの世代・・・現在佐藤氏は58歳。Wikiによると「しらけ世代」とあるがどうなんだろう。
戦後の「日本は悪かった」とする価値観の中で育ってきたなら体制は「悪」。
そもそも日本のメディアは赤い。その価値観で言えばそうなのか・・・
皆で創っていくもの!
日本には昔から体制側と民衆に対立関係などないのである。
なぜなら世界で唯一「皇室」をいただく国であるから。
日本書紀、神武天皇の「建国の詔(みことのり)」にある通り、日本が常に目指してきたのは「民利政治」である。
国民に利益のある政治を行うことを国是としてきたのだ。
皇室は常に国民の安寧を祈り、その想いに応えるべく国民は力を合わせて良い国づくりに励んできた。
皆の「しあわせ」のために。
堂々と
だから堂々と体制側を演じて欲しかった。
総理が目指すもの、それは国民の「しあわせ」であり、そのために国を護り、国民に利益のある政治を行うのだ。
先の永野修身軍令部総長も同じ想いであっただろう。
対立を煽るのではなく、皆で創り上げていくにはどうすべきかを考える必要があるのではなかろうか・・・