中央集権化
前回、中臣鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇)が“大化の改新”を断行し、私有財産をすべて廃止したため豪族たちの力は弱まり、朝廷の内部にいる、貴族や官僚たちが力をつけていったと述べました。
その中で力を得たのが中臣鎌足を始祖とする藤原氏であり、中央集権化がより進んでいくことになりました。(未読の方はこちら)
こうして中央集権化が進みながら時代が進んでいきます。平安時代にはなんと平和な時代が400年も続いたのです!さて、このときの日本の政治の形はどのようなものであったのでしょうか。天皇を君主とする専制政治でしょうか。
実はこの当時から立憲君主制とも呼べる政体だったのです!(とうさんはそうとられています)
中央集権化を進めていったのも官僚機構を整備し憲法にのっとった政治を行おうとしたからです。日本初の憲法と呼ばれる“十七条の憲法”が発せられたのが大化の改新の少し前でした。ご存じの通り聖徳太子によるものですね。ちょっと見てみましょうか。長いので現代文に、しかも意訳しています。正確に知りたければネットで検索してくださいな。
十七条の憲法
当時は憲法と書いて“いつくしきのり”とよんでいたらしいです。
一、和をもって貴しとなす。上下が親睦の気持ちを持って議論すれば何事も成就する。
二、仏の教えを大切にせよ(人として生きる道が示されているためか。神道には教義がない)
三、君主を天とし、国民を地となす。天が地をおおっており、地が天をのせている。このため万物に気が通い物事に秩序がある。天と地がひっくり返れば秩序は崩壊する。
四、臣は礼を根本とせよ。上に礼がなければ下も乱れる。
五、官僚は物欲を捨て、訴訟を厳正に審査せよ(わいろなど受け取るな)
六、勧善懲悪。
七、人にはそれぞれ任(役割)がある。適材適所。
八、官僚は朝早く出勤し、夕方遅く退庁せよ。それほど公務は多くある。
九、真心は人の道の根本である。
十、心の中の憤(いきどお)りをなくし、憤りを表情に出さぬようにせよ。いろいろな考えがあってしかるべき。自分の考えだけが正しいと思うな、皆の意見も聞け。
十一、明察功過。良いことも悪いこともしっかり見極め、正しく賞罰を与えよ。
十二、地方を治める者は勝手に税を徴収してはならない。
十三、公務にあたるものは引継ぎをしっかり行い、公務が滞ることの無いようにしなさい。
十四、官僚は嫉妬のこころを持ってはならない。
十五、私心を捨てて公務に向かうことが臣たる道である。
十六、人を使うには、時を見極めよ。
十七、物事を一人で判断するな。必ず皆で議論して判断せよ。些細なことは良い、重大な事柄は皆で考え判断をあやまるな。
十七条の憲法の示す「和」
このように十七条の憲法は「議論せよ!」(上下心を一つにして議論すれば何事も成せる)から始まり、中ほどに「いろいろな意見がある」ことを述べ、最後に「必ず皆で議論せよ!」(一人で考えて判断すれば誤ることもある)と、議論することの重要性を説いています。また、議論で大切なのが第一条にもある『和』です。
和とは、しっかりとした自分の考えを持ちながら、他の意見も聞き、争うのではなく、より良い方向へ物事を進めていくように成すこと、であると考えます。
この憲法をもとに政治をしていたと考えられますから、天皇が一人で物事を決めてしまう専制政治などではなかったことが示唆されます。そして封建制でもなかったと思われます。なぜなら十七条の憲法の三条でも述べている通り、天は地をおおっており、地は天をのせていると明確に述べていることからも明らかでしょう。天と地が両方整っていて初めて秩序が生まれると述べている通り、一方的に与えるものではなく相互関係を示していると読めます。
このように、天皇の絶対君主的支配から、中世では官僚機構を中心とした政治機構に変化していきます。その中で権力を握ったのは藤原氏でした。このあたりから、権威としての「天皇」と政治機構上の「権力者」が分離していくことになるのです。
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