日本大好き「とうさん」の 〝つぶやき″ & ときどき FX

【おもしろい】武田邦彦氏の哲学|神はサンタさんのようなもの

  • 2020年3月11日
  • 2020年5月20日
  • 哲学
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武田邦彦先生

とうさんよく武田邦彦先生のyou tubeをみる。その中で「アコースティック哲学 神と金」というシリーズがある。なかなかに面白い論考なのでお勧めだ。

理性・知性

武田先生は科学者。だから事実を事実として認め、そこから物事を論考しようとされる。そして「大脳皮質で考える『理性』や『知性』は絶対なものではなく、よく間違える」ということを自身の体験から深く理解されている。

大脳皮質の知識量などたかだか数十年の積み重ねに過ぎない。それよりももっと本能の部分(岡潔先生のおっしゃる「情」の部分か)、つまり遺伝子レベルに積み重ねられたものや動物的本能のようなものの方が大切であると説く。

利他

近年、利他的行動がもてはやされている。というか海外でもようやくそのことの大切さがわかってきたよう。だが、海外のそれは何か違和感がある。他者に利益があるように行動することで、結局は自分が幸せになる、という「利他は自己の利益につながる」という考えが根本にあるように見えてしまうから・・・。
これは大脳皮質で「考えた」利他でしかないのではないか。

本当の「利他」

武田先生は鮭の産卵に良く例えられる。鮭は産卵を終え、受精を見届けるとその場で命を絶つそうだ。なぜか?それは自らの体を、孵化した子供達の餌とするため。

「個」のしあわせのためではなく、「群れ」のしあわせ、つまりその種の存続を第一に考えているのだ。ま、「考えて」はいないのだが。本能のなせる業なのだろう。

「群れ」=「共同体」と捉えることもできるととうさんは考える。

特攻隊の「利他」

そう考えると大東亜戦争で散華された神風特攻隊の方々の「死」は本来の利他にほかなるまい。自己を「個」として捉えるのではなく、日本国に住む「国民」及び「子々孫々」、つまり「共同体」の『しあわせ』のために存在する「命」であると、本能的に理解されていたのだ。

尊い犠牲の上に現在の日本がある、そのことに対する感謝を忘れてはならない。と同時に、我々も日本の危機には我が身をもってぶつからねば先人の大恩に応えられない・・・。

本能による教え

話が飛んだので戻そう。各種宗教を創始した偉人達(お釈迦様やイエス様)は本能による教えを説こうとした。しかし偉人達からすれば、ほとんどの人間は幼稚園児並みの知性しか持っていないように見える・・・

つまり、我が教えを理解することは不可能だろうと考えられた。しかしこの世を争いのない良い社会にせねばならない、それが自分達に与えられた役割であり本能に沿うことなのだから。

さて、どうするか・・・

そこで「神」

幼稚園児にもわかるように「神(ゴッド)」という神聖不可侵な存在を創った。幼稚園児がサンタさんを信じるがごとく、人々に「神の教え」として本来の人としての在り方を示されたのだ。

「夜は早く寝て、お父さんお母さんの言うことを聞いてないとサンタさんは来てくれないよ」

これを言い換えると・・・

「神様のおっしゃる通りに現世を過ごせば、来世は天国へ行けますよ」

しかし・・・

幼稚園児のヨーロッパ人は偉人達の想いを理解できず、「おらの神が一番だ!」「いやいやおらんとこの神が~~~」。そして宗教戦争・・・

武田先生曰く「お釈迦様とイエス様は喧嘩をしないと思うのだが・・・」

お釈迦様もイエス様もマホメットも、どうすれば「共同体」のしあわせにつながるのかを考えられた。

しかし、その教えを心から理解できる民族は「日本民族」だけだったのかもしれない。特攻隊として散華された英霊の皆さんがそれを証明していると、とうさんには思えてならない・・・

日本の歴史はこれ↓↓

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